役職(大名)2

役職(大名)2
江戸幕府
  • 役職(大名)
  • 役職(大名)2
  • 役職(旗本)
  • 役職(旗本)2
  • 役職(旗本)3
  • ホーム >> 役職(大名)2


    役職(大名)2

    役職(大名)2
    京都所司代
    京都所司代(きょうとしょしだい)は、江戸時代に京都の治安維持の任務にあたった部署である。
    本項ではこちらを中心に記述する。
     
    職務
    定員1名。
    3万石以上の譜代大名から任命、役料1万石が給され与力30騎(後50騎)同心100人が付属。
    京都の制圧、朝廷・公家の監察、西日本諸大名の監視,五畿内及び近江、丹波、播磨の8カ国の民政を総括した。
    特に初期は徳川家康、徳川秀忠、徳川家光の歴代将軍が度々上洛し所司代体制と将軍上洛の不可分の関係がみられた。
    幕府支配一元化の方向が見えた1688年京都支配など民生上の権限を京都町奉行に譲った。
    以後は老中への出世の通過点となり、地位のみが高く幕政上の政治力は急激に低下した。
    このため幕末には所司代の無力さが指摘され京都守護職がその上位機関として設置された。
     
    所司
    本来、侍所の長官を所司といい、その代理を所司代というが、江戸幕府には、侍所は、設けられなかった。
    江戸時代の所司代は鎌倉幕府におかれた六波羅探題や室町幕府におかれた所司代(侍所麾下、京都の治安担当)に倣って設置されたものである。
    所司代の役所や、住居は、二条城の北に隣接した場所に設けられ、二条城は使用されなかった。
    また、支配下に京都とその周辺の行政のために京都郡代が置かれたが、後に町中を担当する京都町奉行と周辺部やそこにある皇室領・公家領を管理する京都代官に分離するようになった。
    京都に置かれた役人の総元締めの立場にあったが、京都市政を預かる京都町奉行や宮中・御所の監督にあたる禁裏付などの役職は平時は所司代の指揮に従うものの、老中の管轄であった。
    幕末動乱期は所司代だけでは、京の治安を治めるのは難しく、その上に最高機構として京都守護職をおき、所司代はその下に入った。


    大坂城代

    大坂城代
    大坂城代(おおさかじょうだい)は、江戸時代の役職の一つ。
    将軍直属で有力な譜代大名が任じられた。
    大坂城を預かり、城の警備、および西国大名の監視等にあたった。
    大阪地方の幕府役職の首席であったが、大阪町奉行など他の大坂の役人は制度上は大坂城代ではなく老中や若年寄の管轄であった。
    江戸時代中期以降、大坂城代・京都所司代を経て老中に就任する例も多い。
    関東地方など遠方に領地を持つ大名が大坂城代に就任すると、所領のうち1-2万石程度を大坂近郊で割り当て直された。
    退任時には、元の所領に戻された(京都所司代への転任などで、引き続き大坂近郊の領地を領有する場合もある)。
    そのため、兵庫県南部では頻繁に領主の入れ替わりがあった。


    寺社奉行
    寺社奉行
    寺社奉行(じしゃぶぎょう)は、室町時代から江戸時代にかけての武家政権における職制の1つで、宗教行政機関。
     
    江戸幕府
    江戸幕府に置いては、慶長17年(1612年)に以心崇伝・板倉勝重に寺社に関する職務にあたらせたが具体的な役職は設置しなかった(なお、崇伝は僧侶、勝重は還俗者である)。
    将軍家光時代の寛永10年(1633年)、板倉勝重の没後、専任で寺社に関する職務にあたっていた崇伝の死去によって担当者が不在となってしまった。
    そのため、寛永12年(1635年)、寺社や遠国における訴訟担当の諸職として創設された。
    諸職ははじめ将軍直轄であったが、老中制の確立とともに老中の所管となり、将軍家綱時代の寛文2年(1662年)に将軍直属に戻る。
    原則として一万石以上の譜代大名が任命され、奏者番を兼任していた(例外として、江戸町奉行の大岡忠相が旗本のまま大名格となり、奏者番を兼ねずに勤めたことがある) 。
    いわゆる「三奉行」のうちでは、勘定奉行・町奉行が老中所轄であるため、筆頭格といわれる。
    定員は4名前後、自邸が役宅となり、月番制。
    勘定奉行・町奉行と共に評定所を構成し、寺社領のものの他に関八州以外の地における複数の知行地にまたがる訴訟を担当した。
    主な任務は全国の社寺や僧・神職の統制であるが、門前町民や寺社領民、修験者や陰陽師らの民間宗教者、さらに連歌師などの芸能民らも管轄した。
    当時の庶民の戸籍は寺社が全て管理していた為、訴訟・戸籍の管理という点で、現在の法務省のような役割を果たした役職である。
       

    若年寄
    若年寄
    若年寄(わかどしより)とは
    江戸幕府の職名。
    本項で詳述する。
    幕府と同様に、諸藩に置かれた役職名。
    年齢の割に老けた外見の男性。
    全国支配の担当である老中に対し、旗本や御家人の支配を軸とする将軍家の家政を担当した。
    1633年(寛永10年) に、徳川家光が側近6人(松平信綱、堀田正盛、三浦正次、阿部忠秋、太田資宗、阿部重次)を日常の雑務を扱う「六人衆」としたことに由来する。
    しかし、そのうち4人は老中に昇進したため存在意義を失い1649年(慶安2年)にいったん廃止され、老中にその職務は吸収された。
    その後1662年(寛文2年)に、若年寄として復活した。
    およそ4人を定員とし、老中・側用人などに出世するために経験する職となっていった。

    人妻
    奏者番
    奏者番(そうじゃばん/そうしゃばん)は江戸幕府および藩の役職の一つである。
    城中における武家の礼式を管理する。
    具体的には大名・旗本が将軍に拝謁する際、あるいは在国の大名が献上品を使者に持たせて江戸城に派遣した場合に、その氏名と献上品の内容を確認して将軍に報告し、将軍が下賜を行う際にその伝達にあたった。
    更に大名の転封などの重大な決定や大名家の不幸に際して上使として派遣されたり、徳川将軍家及び御三家の法要において、将軍が参列できない場合の代参を行うこともあった。
    また、将軍の御前で元服を行う大名・世子に礼儀作法を教える役目も担った。
    幕府では、定員の定めは特にないが20-30名とされている。
    通説では慶長8年(1603年)の本郷信富の任命を最初とするが、それ以前に求める異説もある。
    後に譜代大名が就任する役職となり、多くの場合初任の役職となるため大名にとっては出世の登竜門的な役職となっている。
    また、大名・旗本と将軍との連絡役となるため、大目付・目付と並ぶ枢要な役職でもあった。
    奏者番の内4名は寺社奉行を兼任する(万治元年(1658年)以後)。
    詰衆からの登用が多く、江戸城内の詰席は芙蓉の間であった。
    文久2年(1862年)閏8月、江戸幕府の文久の改革により、廃止されたが翌年10月に復活している。
    人妻はたくさんの重ね着をしていました。


    Yahoo!検索