役職(旗本)2

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    役職(旗本)2

    役職(旗本)2
    書院番
    書院番(しょいんばん)とは、江戸幕府の徳川将軍直属の親衛隊。
    慶長10年に設立され、水野忠清、青山忠俊、松平定綱、内藤清次が番頭に任命された。
    当初四組によって構成され、後に六組まで増員される。
    また親衛隊という性格から、西丸が使用されているとき(大御所もしくは将軍継嗣がいるとき)は、西丸にも本丸と別に四組が置かれる。
    一組は番士50名、与力10騎、同心20名の構成からなる。
    番頭は、その組の指揮官である。
    大番と同じく将軍の旗本部隊に属し、他の足軽組等を付属した上で、備内の騎馬隊として運用されるが、敵勢への攻撃を主任務とする大番と異なり、書院番は将軍の身を守る防御任務を主とする。
    小姓組とともに「両番」と称せられ、有能な番士には出世の途が開かれていた。
    1600年の関ヶ原の戦いで西軍に与したため、戦後、改易されて浪人となった立花宗茂が、1604年に徳川家康に召しだされたとき、宗茂は書院番頭に任じられ、5千石で遇されている。


    小姓組と大目付

    小姓組
    小姓組(こしょうくみ)とは、江戸幕府の組織で、軍事を司る番方のひとつ。
    同様の組織として五番方(小姓組、書院番、新番、大番、小十人組)があり、小姓組はその中でも両番(小姓組、書院番)に含まれている。
    因みに一般的イメージの小姓とは異なり、純然たる戦闘部隊である。
    慶長11年(1606年)11月に設立され、水野忠元・日下部正冬・成瀬正武・大久保教隆・井上正就・板倉重宗の六人を番頭とした。
    戦時の任務は旗本部隊に於いて将軍の直掩備・騎馬隊の任に就き、平時は城内の将軍警護に就く。
    書院番とともに親衛隊的性格を持つため、番士になる資格が家格や親の役職などで制限されていた。
    そのため番士の格が他の番方より高いとみられ、その後も高い役職に就くことが多かった。
    若年寄支配で、番頭の役高4000石。
    6番あり、番頭の他に与頭1人と番士50人。
    西の丸に他に4番あった。
     
    大目付
    大目付(おおめつけ)は、江戸幕府の役職のひとつで、職制上は老中に属し、大名・高家および朝廷を監視してこれらの謀反から幕府を守る監察官の役割を持った。
    諸藩にもこれらの役職が置かれることがあった。
    江戸時代初期には、柳生宗矩のような大名からも選ばれていたが、後に石高3千石?5千石級の旗本から選ばれた。
    大目付は、旗本の職の中でも江戸城留守居・御三卿家老に準ずる最高位とされた。
    そして、旗本でありながら万石級(大名)を監視する事から、その在任中は万石級の格式を与えられ、○○守という称号が叙任された。
    江戸時代中期になると、従来の監察官としての色彩よりも伝令(幕府の命令を全国の大名に伝える役)や殿中(江戸城中)での儀礼官としての色彩が濃くなる。
    また、兼帯といって道中奉行・宗門改役・鉄砲改役など5つの役を兼任した。
    定員は5名。
    道中奉行を兼帯する大目付は、5人の中では筆頭格である。
    また、京都所司代・大坂城代等と同様に将軍を代理する立場にある。
    若年寄に属する目付の上位に位置し、その権威だけはますます強くなった。
    諸藩にあっては、おおむね中老・番頭・組頭より格下の藩士から選ばれた。
    薩摩藩では、はじめ横目頭と呼ばれ、藩では家老、若年寄に次ぐ役職であった。
    一所持や一所持格といった上級武士から出た。


    町奉行
    町奉行
    町奉行(まちぶぎょう)とは江戸時代の職名で、領内の都市部(町方)の行政・司法を担当する役職。
    幕府だけでなく諸藩もこの役職を設置したが、一般に町奉行とのみ呼ぶ場合は幕府の役職である江戸町奉行のみを指す。
    また、江戸以外の天領都市の幕府町奉行は大坂町奉行など地名を冠しており、遠国奉行と総称された。
    このページでは江戸町奉行および江戸町奉行所について記述する(以後、特別断りが無い場合、奉行とは町奉行、奉行所とは町奉行所を指す)。
    江戸町奉行は寺社奉行・勘定奉行とあわせて三奉行と称された。
    他の二奉行と同様評定所の構成メンバーであり、幕政にも参与する立場であった。
    基本的に定員は2人である。
    初期は大名が任命され、以後は旗本が任命された。
    旗本が任命されるようになってから以降の町奉行の石高は3000石程度であった。
    その職務は午前中は江戸城に登城して老中などへの報告や打ち合わせを行い、午後は奉行所で決裁や裁判を行なうというもので、夜遅くまで執務していた。
    激務で知られており在任中のまま死亡する率は有数であった。
    役職上与力や同心は部下にあたるが、これらはあくまで将軍家の家臣であり、世襲制で奉行所に勤めていた。
    奉行はあくまで老中所轄の旗本に過ぎず、そのため、与力や同心たちとは直接の主従関係は無かった。
    逆に奉行と主従関係にあった与力を内与力と呼び、通常の与力とは区別された。
    一般に講談などでは南北奉行所が互いにライバル関係にあり仲が悪かったかのように描写されるが、後述する南北奉行所の関係からもわかるように、むしろ、奉行の方が余所者であって信頼関係が薄かったとされる。
     
    町奉行所
    1631年に幕府が町奉行所を建てるまで、町奉行所は、町奉行に任ぜられた者がその邸宅に白州を作ってその職務を執り行っていた。
    管轄区域は江戸の町方のみで、面積の半分以上を占める武家地・寺社地には権限が及ばなかった。
    ただ寺社の門前町についてはのちに町奉行管轄に移管された。
    1818年には江戸の範囲が地図上に赤い線(朱引)で正式に定められたが、同時に町奉行の管轄する範囲も黒い線(墨引)で示された。
    これは後の東京15区、即ち市制施行時の東京市の範囲とほぼ一致する。
    町奉行所と言う名称は、その役職から来た名であるため、町人たちからは御番所や御役所と呼ばれていた。
     
    月番制
    よく北町奉行(所)・南町奉行(所)と言われるように、(一部の時期を除き)江戸町奉行所は2ヶ所あったが、これは管轄区域を二分していた訳ではなく月番制によって交互に業務を行っていたという制度である(ただし、市中を巡回する廻り方同心は巡回すべき自身番を指定されておりそういった意味での管轄は存在した。しかし、この各同心が担当する自身番も、江戸市中に散在する形で割り当てられており、現今の警察の○○方面というような地域的にまとまったものではなかった。)この月番制は、民事訴訟の受付を北と南で交替で受理していたことを指すものであり、民事訴訟の受理以外の通常業務(職権開始の刑事訴訟を含む)は当然行われていた。
    また月番でない奉行所は、月番で受理し、未処理となっている訴訟の処理等も行っていた。
    その南北と言う名称にしても、奉行所所在地の位置関係によりそう呼ばれていたということであり、南北は正式な呼称ではなく公式には一律で町奉行とのみ呼ばれた。
    従って1つの奉行所が移転されたことによって、各奉行所間の位置関係が変更されると、移転されなかった奉行所の呼称も変更されることになる。
    宝永4年(1707年)に本来北町奉行所であった常盤橋門内の役宅が一番南側の数寄屋橋門内に移転した際には、その場所ゆえに南町奉行所と呼ばれるようになり、従来鍛冶橋内にあった南町奉行所が中町奉行所に、同じく呉服橋門内にあった中町奉行所が北町奉行所となった。
     
    その他
    1702年(元禄15年)閏8月 - 1719年(享保4年)1月という短い間ではあるが中町奉行所というものも設置された。
    設置された理由や職務内容はあまり定かではないが、南北町奉行所の補助役として設置されたとされる。
    明治以降、奉行所は取り壊されてしまったが、北(東京駅八重洲口北側付近)・南(有楽町マリオン付近)の両町奉行所が存在していたとされる場所には、今でも石碑が建っている。
    ただし、いずれも幕末期における町奉行所の位置を指すものであり、文化2年(1812年)以後に固定化された場所に相応している。
       

    勘定奉行
    勘定奉行
    勘定奉行(かんじょうぶぎょう)は江戸幕府の職名の一つ。勘定方の最高責任者で財政や天領支配などを司る。
    寺社奉行・町奉行とともに三奉行の一つで、共に評定所を構成した。
    元禄年間までは勘定頭(かんじょうがしら)とも称した。
    評定所においては、関八州内江戸府外の訴訟について担当した。
    定員は約4人で役高は3000石。
    老中の下にあり、郡代・代官・蔵奉行などを支配した。
    1698年以降は、うち1人が大目付とともに道中奉行を兼務した。
    1721年には財政・民政を主に扱う勝手方勘定奉行と訴訟関連を扱う公事方勘定奉行とにわかれた。
    勝手方と公事方の職務は全く別のものであり、事実上名称のみが共通している状態であった。
     
    旗奉行
    旗奉行(はたぶぎょう)とは、江戸幕府における組織の一つ。
    戦場にて旗指物の管理を行う役目。
    大坂の役にて徳川家康本陣が真田幸村隊の突進を受けた際に、旗奉行に不首尾があり、このことを家康は厳しく詮議した。
    ところが、大久保彦左衛門は旗奉行の不首尾は古参譜代衆を差し置いて新参者に旗奉行のような要職を任せた家康の失態であり、高齢の家康には汚名返上の機会はないと思い、旗は倒れなかったと主張して聞かなかったという逸話がある。
     
    作事奉行
    作事奉行(さくじぶぎょう)とは、江戸時代の旗本の役職の一つ。
    布衣役。
    1632年(寛永9年)設置。
    幕府の造営修繕の管理に掌る役職。
    特に木工仕事が専門で、大工・細工・畳・植木などを統括した。
    また1662年(寛文2年)から宗門改役が1名が兼任されるようになる。
    1792年(寛政4年)に廃止になった。
    普請奉行、小普請奉行とあわせ下三奉行(しもさんぶぎょう)といった。
    役高は2100石高だったが、1867年(慶応3年)に2000両支給に変更した。
    定員は2〜3人。
    納戸口と中の口門の間の棟の一番端の目付部屋の隣に本部があった。
    下役に京都大工頭、大工頭、作事下奉行、畳奉行、細工所頭、勘定役頭取、作事方被官、瓦奉行、植木奉行、作事方庭作などの役があった。

    不倫
    普請奉行
    普請奉行(ふしんぶぎょう)とは、江戸時代の武家の役職の一つ。
    江戸幕府の旗本及び諸藩の役職。
    江戸幕府においては従五位下に叙せられる諸太夫役。
    別名は、御普請奉行。
    ここでいう普請は、仏教用語で「ひろく大衆に労役に従事してもらう」という意味である。
    お城の石垣普請や縄張りを司る役割。
    定員は概ね2名程度。
    役高は、2000石。
    下に下奉行、改役、普請方などの役があった。
    作事奉行、小普請奉行とあわせ下三奉行(しもさんぶぎょう)といった。
     
    小普請奉行
    小普請奉行(こぶしんぶぎょう)は、江戸幕府に置かれた職のひとつ。
    旗本から任じられ、若年寄に属した。
    1685年(貞享2年)に初めて設置され、江戸城をはじめとして、徳川家の菩提寺である寛永寺、増上寺などの建築・修繕などを掌った。
    物品を購入する「元方」と、その物品を配分する「払方」が設置され、定員はそれぞれ1名であった。
    配下として小普請方、小普請改役、小普請吟味役などが設けられていた。
    普請奉行、作事奉行とともに「下三奉行」と称された。
     
    甲府勤番
    甲府勤番(こうふきんばん)は、江戸幕府の役職。
    江戸時代中期に設置され、幕府直轄領化された甲斐国に常在し、甲府城の守衛や城米の管理、武具の整備や甲府町方支配を担った。
     
    甲斐一円の幕府直轄領化と甲府勤番支配
    甲斐国は武田氏滅亡後に徳川氏、豊臣系大名が領し、甲府城が新たに築かれ甲府を中心とする支配が行われていた。
    江戸時代初期には国中三郡を治める甲府藩、東部の郡内地方を治める谷村藩が設置され、宝永元年(1704年)に谷村藩が廃止された柳沢藩主家時代には甲斐一円は甲府藩支配となっていた。
    甲州街道を通じて江戸と結ばれる甲斐国は政治的要地と位置づけられていたが、享保年間に将軍吉宗の主導した享保の改革においては幕府直轄領拡大政策が行われ、享保9年(1724年)3月に甲府藩主家の柳沢氏が転封され甲府藩は廃藩となり、甲斐一円は幕府直轄領化され甲府町方は町奉行から勤番支配へ、在方は四分代官支配へと移行した。
    『徳川実紀』『甲府勤番日記』によれば甲府城の受け渡しが完了すると同年7月4日には有馬純珍、興津忠閭が赴任し、8月には老中水野忠之から服務内容「於甲府勤番之事」が達せられた。
    老中松平定信が主導した寛政の改革においては不良幕臣対策として甲府勝手小普請が併設される。
    慶応2年(1868年)8月5日には甲府勤番支配の上位に甲府城代が設置され、同年12月15日には甲府町奉行が再び設置され、甲府勤番の機能は城代、小普請組、町奉行に分割された。
     
    甲府勤番の職制と勤番士の任務、文化的活動
    甲府勤番の構成は役宅の所在する追手・山ノ手の2組で、各組の長として甲府勤番支配が置かれ、配下に勤番士100名・与力・同心などが配置された。
    職制上は老中配下で、遠国奉行の筆頭として江戸城芙蓉之詰め。
    知行高3000石・役料1000石、小普請支配から多く任命された。
    甲府勤番支配の就任者は享保9年以降に75人で、追手組甲府勤番支配は計38人、山ノ手組甲府勤番支配は37人が就任した。
    家禄は大半が3000石以上の高禄旗本で、前職は当初の有馬・興津両名が小普請組支配であった慣行から小普請組支配が多い。
    また、徳川家臣となっていた甲州系家臣が多く登用されていることも指摘されている。
    勤番士は石高500石から200俵取りまでで5人ずつの組に編制され、小普請組から多く任命された。
    任務は甲府城の守衛、城米の管理、武具の整備、町方支配で、「甲府勤番日記」によれば、最も重要な任務である甲府城の守衛は各門を昼夜交代で警備し、弓、鉄砲などの武器は武具奉行が管理した。
    甲府勤番は元禄年間に増加し幕府財政を圧迫していた旗本・御家人対策として開始されているが、旗本日記などには不良旗本を懲罰的に左遷したとする「山流し」のイメージがあり、「勤番士日記」にも勤番士の不良旗本の処罰事件が散見されている。
    勤番士の綱紀粛正のため半年に一度は武芸見分が実施されており、寛政8年(1796年)には勤番支配近藤政明(淡路守)、永見為貞(伊予守)により甲府学問所が総説され、享和3年(1803年)には林述斎から「徽典館」と命名され昌平坂学問所の分校となった。
    また、野田成方『裏見寒話』や宮本定正『甲斐迺手振』など甲斐国に関する地誌書を記した勤番士もおり、勤番支配滝川利雍が編纂をはじめ公認の松平定能が引き継いで完成させた『甲斐国志』は、甲斐国に関する総合的な地誌として知られる。
    不倫の文化のはじまりでもあります。


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