役職(旗本)

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    役職(旗本)

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    高家
    高家(こうけ)とは、江戸時代における、いわゆる名門・名家のことであり、江戸幕府の役職のひとつ。
    高家になれる旗本を指す。
    江戸時代における高家は、幕府における儀式や典礼を司った。
    主に室町時代の足利氏一門や旧守護、著名な戦国大名の子孫など、いわゆる「名門」の家柄で占められ、代々その職を継承した。
    のちに江戸へ下向した公家の子孫も加わった。
    主な職務として伊勢神宮、日光東照宮、久能山東照宮、寛永寺、鳳来山東照宮への将軍の代参、幕府から朝廷への使者、京からの勅使・院使の接待や、接待に当たる勅院使(饗応役の大名)への儀典指導など、朝幕間の諸礼に当った。
    創設の理由として、徳川家康がかつての名門の子孫が没落している現状を惜しんだためと思料される。
    徳川氏が武家の棟梁として「旧来の武家の名門勢力を全て保護・支配下に置いている」という、政権の正当性および権力誇示という見方もある。
    江戸時代初期、徳川秀忠が、元和元年(1615年)に足利家の縁故である石橋家、吉良家、今川家の3家の登用に始まるとされるが、石橋家という高家は存在しない。
    その後は順次増加し、宝永9年(1780年)には26家となり、以後幕末までその数は変わっていない。
     
    制度
    幕府において老中の支配下とされた。
    役職に就いている家を奥高家、非役の高家は表高家と呼ばれた。
    さらに、奥高家から有職故実や礼儀作法に精通している3名を選んで高家肝煎とした(「三高」、「高家筆頭」は誤り)。
    天和3年(1683年)に大沢基恒、畠山義里、吉良義央の3名が高家肝煎となったが、高家肝煎は固定されず、後に高家見習も設けられ、主に高家職の嫡子から選ばれた。
    一時的であるが、御側高家(西城高家、西の丸高家とも)が設けられている。
    公式の場における礼儀作法を諸大名に伝授することも職分であり、その際、相応の謝礼を受けることが黙認されていた。
    格式は高くとも(それに伴って経費も増加する)、少禄の高家にとっては貴重な収入であった。


    高家

    格式
    朝廷への使者として天皇に拝謁する機会がある為に官位は高く、最高は従四位上左近衛権少将まで昇った(例外として、大沢基宿は正四位下左近衛中将に昇っている)。
    大半の大名は従五位下であるから、その違いは歴然である。
    忠臣蔵の吉良上野介義央はわずか4200石ながらも、従四位上左近衛権少将であった[1]。
    もっとも、必ずしも従四位上左近衛権少将に昇任できるわけではなく、主に高家肝煎に就任した者が対象である(吉良義央など)。
    奥高家は主に従五位下・従五位上・従四位下止まりであり、官位も侍従止まりである。
    一度も昇殿する機会が無かった高家も少なからず存在するが、これは昇殿する必要がなかったためであり、役職につかなければ叙任されなかった。
    なお、当主は他の役職には就くことはできないのが原則である。
    高家以外の職に就く場合は、一度高家の列を離れている。
     
    高家に関連する事件
    元禄9年(1696年)7月10日、六角広治は不行跡により表高家を解れて逼塞を命じられ、元禄10年(1697年)4月23日には蟄居隠居をとなる。
    遊郭での度重なる失態や乱行が問題視され、将軍綱吉の母桂昌院の一族(児玉党系本庄氏)に繋がる縁戚であったため、「武士としてあるまじき醜態」として処分されたといわれる[2]。
    元禄14年(1701年)4月、高家肝煎の吉良義央が勅使馳走役の浅野長矩に殿中で斬りつけられる。
    しかしその成敗が一方的に浅野の非を認めるものとなったことから(当時は基本的に「喧嘩両成敗」)、翌年暮れに浅野の遺臣の一団に自宅を襲撃されて討ち取られ(元禄赤穂事件)、これで吉良家は改易となる[3]。
     
    高家一覧
    有馬家
    公家久我通名の子堀川広益を初代とする。
    徳川家宣に召し出される。
    500石。
    一色家
    公家唐橋在数の次男で、一色氏の養子となった在通を初代とする。
    家譜によると次の在種のときに改易されたというが、幕府創成記にありがちな伝承の域を出ない。
    1000石。
    今川家
    清和源氏足利流。
    駿河の戦国大名だった今川氏真の孫直房を初代とする。
    吉良家との血縁関係もあって、比較的早く高家として登用された。
    幕末の範叙は若年寄に登用されている。
    1000石。
    上杉家
    清和源氏。
    畠山義春の次男上杉長員を初代とする。
    1490石。
    1662年の長貞の死亡に関し、宣旨紛失のために自殺したとされる。
    大沢家
    藤原北家中御門家頼宗流。
    持明院基盛を祖とする。
    大沢基宿は家康の将軍宣下の儀礼を司っており、実質的な高家の始まりとされる。
    3550石。
    維新に際して基寿は堀江藩を立藩したが、後に石高を偽っていたことが発覚して華族から士族へ降格される。
    なお、分家3家も一時的に高家職に登用された。
    大友家
    藤原北家。
    豊後の戦国大名大友義統の外孫義孝を初代とするが、これ以前にも義統の子(義乗が高家に任じられている。
    1000石。
    織田家
    桓武平氏を称し、織田信長を祖とする3家。
    信長の七男信高の子孫。
    2000石。
    信長の十男信貞の子孫。
    700石。
    信長の次男信雄の子孫。
    2700石。
    幕末期の当主信愛は海軍奉行並に登用されている。
    京極家
    宇多源氏佐々木流。
    室町幕府の四職である京極家の子孫である高国の嫡子高規を初代とする。
    1500石。
    吉良家 (三河吉良氏)
    清和源氏足利流。
    大沢家とともに江戸時代初期から高家を勤めた。
    4200石。
    代々高家筆頭であったが、元禄赤穂事件により改易された。
    吉良家 (武蔵吉良氏)
    清和源氏足利流。
    三河吉良家とは別系統である。
    元は吉良姓であったが、三河吉良氏に遠慮して蒔田姓に改める(今川、品川両氏の例のように、幕命とも伝わる)。
    義成が高家となり、息子義俊は三河吉良氏の絶家に伴って吉良姓に復する。
    1420石。
    品川家
    清和源氏今川家の傍流。
    今川氏真の次男品川高久を初代とする。
    1713年、範増の早世により一旦絶家するが、約1ヵ月後に血縁の信方により再興。
    1500石から300石に減知される。
    武田家
    清和源氏義光流。
    甲斐の戦国大名武田信玄の次男海野信親の子孫である武田信興を初代とする。
    徳川綱吉に召し出される。
    500石。
    長沢家
    藤原氏。
    公家外山光顕の次男長沢資親を初代とする。
    徳川綱吉に召し出される。
    1400石。
    土岐家
    清和源氏頼光流。
    2家あり。
    美濃の守護大名土岐頼芸の次男頼次の子孫。
    1706年8月18日、頼泰は飲酒による傷害事件により改易される。
    700石。
    土岐頼芸の四男頼元の子孫。
    曾孫頼元は徳川家綱の治世に高家に列した。
    700石。
    戸田家
    公家六条有純の子戸田氏豊を初代とする。
    徳川家光に召し出される。
    2000石。
    中条家
    藤原北家長良流。
    公家樋口信孝の次男中条信慶を初代とする。
    徳川家綱に召し出される。
    1000石。
    畠山家
    室町幕府の三管領の河内半国守護畠山氏と能登畠山氏の子孫の2家がある。
    畠山政国(畠山政長の曾孫)の孫貞政の子孫。
    5000石。
    畠山義春(上記の高家上杉家参照)の三男義真の子孫。
    3120石。
    日野家
    藤原北家日野流。
    家康に近侍した公家日野輝資の子資栄を初代とする。
    徳川家光に召し出される。
    1530石。
    前田家 (藤原氏)
    藤原北家。
    春日局の義兄三条西実条の子孫で、公家押小路公音の次男前田玄長を初代とする。
    徳川綱吉に召し出される。
    1400石。
    前田家 (菅原氏)
    菅原氏。
    前田家(藤原氏)とは別系統。
    公家高辻長量の次男前田長泰を初代とする。
    徳川綱吉に召し出される。
    1000石。
    宮原家
    清和源氏足利流。
    古河公方足利高基の長男で、関東管領の晴直の子孫(喜連川家とは別系統)。
    1040石。
    なお、喜連川藩主喜連川氏春や足利聡氏は宮原家から喜連川家に養子入りしている。
    最上家
    清和源氏。
    最上義光の子孫義智が一代限りの高家に登用された。
    5000石。
    のちに交代寄合となった。
    由良家
    清和源氏新田流とする。
    新田氏の子孫を称したが、上野国新田庄横瀬郷を本拠とした小野姓横瀬氏とされる。
    由良貞長が旗本となったが、貞房が高家となる。
    1000石。
    維新後、新田姓に改めて新田氏嫡流を巡って交代寄合の岩松家と争ったが、岩松家が嫡流と認められて男爵となった。
    横瀬家
    由良貞房の次男横瀬貞顕を初代とする。
    徳川綱吉に召し出される。
    1000石。
    六角家
    藤原北家日野流。
    公家烏丸光広の次男六角広賢を初代とする。
    徳川家綱に召し出される。
    2000石。
    広賢・広治・広豊・広満(実父は日野資鋪)・六角広豊・広雄(実父は大沢定時)・広孝と続いた。


    側衆
    側衆
    側衆(そばしゅう)とは、江戸幕府の役職のひとつ。
    御側衆(おそばしゅう)とも呼ばれた。
    征夷大将軍の側近として仕えた。
    将軍が就寝中は宿直役を務め、主に将軍の警護や、将軍が就寝中に老中などによって持ち込まれた政策などを上覧・決定する権限を持つ役割であった。
    また、将軍に対して意見を述べることも許され、将軍の諮問機関的役割もあったことから、「影の老中」と称されるほど権威は大きかった。
    徳川家綱(四代将軍)時代の承応2年(1653年)に設置が通説となっているようだが、実体としては徳川家光(三代将軍)時代の中根正盛(大目付)に始まったといわれる。
       
    駿府城代
    駿府城代・定番
    1633年(寛永10年) 、江戸幕府は徳川忠長が改易されて直轄領となった駿府に駿府城代を置き、東海道の要衝である当地の押えとした。
    駿府城代は老中支配で、駿府に駐在して当城警護の総監・大手門の守衛・久能山代拝などを管掌した。
    譜代大名の職である大坂城代とは異なり大身旗本の職であるが、老中支配の中では最高の格式を持ち、御役知2000石、伺候席は雁間詰めであった。
    また1649年(慶安2年)に設置された駿府定番は、駿府城代を輔ける副城代に相当し、当城の四足門の守衛を担当した。
    駿府城代と同様に老中支配で、御役高1000石・御役料1500俵、芙蓉間詰めであった。
     
    駿府在番・勤番
    駿府城には、定置の駿府城代・駿府定番を補強する軍事力として駿府在番が置かれた。
    江戸時代初期には、幕府の直属兵力である大番が駿府城に派遣されていたが、1639年(寛永16年)には大番に代わって将軍直属の書院番がこれに任じられるようになった。
    その後約150年間、駿府在番は駿府における主要な軍事力として重きをなすとともに、合力米の市中換金などを通じて駿府城下の経済にも大きな影響を与えたとされる。
    しかし1790年(寛政2年)に書院番による駿府在番が廃止され、以降は常駐の駿府勤番組頭・駿府勤番が置かれて幕末まで続いた。
    この駿府勤番組頭・駿府勤番は駿府城代支配の役で、それぞれ御役高500石・御役料300俵と御役高300俵であった。
     
    駿府城代支配
    駿府城代支配の諸役としては、既述の駿府勤番組頭・駿府勤番の他に、駿府城内の武器・弾薬を管理する駿府御武具奉行や交代寄合の榊原氏が世襲で務めた久能山総門番などがある。
    駿府城代は、こうした支配の諸役と駿府加番などで構成される駿府における番方(軍事・警備)の要として、駿府の庶政を掌る役方の駿府町奉行とともに直轄地・駿府を幕末まで治めた。
       

    伏見奉行
    伏見奉行
    伏見城廃城後に城代に代わって置かれた。
    定員は1名。
    京都への入口である伏見宿及び淀川河岸を監督(大名が参勤交代の途中で勝手に入京して朝廷と接触しないように)するため、遠国奉行の中では唯一大名が就任することがあった役職である。
    そのため足高制の対象になっていないが、役料として3000俵が支給された。
    配下は与力10騎同心50人。
    また、京都所司代や京都町奉行とのつながりが強く、京都での大事の際には支援に駆けつける事もあった。
    また、寛文年間には京都町奉行が形式上伏見奉行の員外で扱われていたり、逆に元禄・文化年間には伏見奉行が京都町奉行に統合されることがあった。
    なお、小堀政方が伏見奉行の時に伏見騒動と呼ばれる事件が発生し、政方の近江小室藩が改易される事態となっている。
     
    留守居
    留守居(るすい)は、江戸幕府および諸藩に置かれた職名のひとつ。
    御留守居とも呼ばれる。
    江戸で諸藩の留守居役は御城使とも言われ、幕府公認の留守居組合をつくって情報交換をしており、いわば諸藩の外交官であった。
    なお少数ではあるが藩主不在中の江戸藩邸の警備責任者たる留守居と、連絡折衝役たる御城使を分けて設置する藩も存在した。
    留守居の副官・補佐役を留守居添役と呼ぶことが多い。
     
    幕府の留守居
    幕府における留守居は、老中の支配に属し、大奥の取り締まりや通行手形の管理、将軍不在時には江戸城の留守を守る役割を果たした。
    役高は5,000石で旗本から選任され、旗本で任じられる職では最高の職であった。
    初期はまとめ役である「大留守居」が設置され、旗本でも最高位の格式が与えられた。
    だが、将軍が江戸城から外出する機会が減少した事と幕府機構の整備による権限委譲によってその地位は低下して、元禄年間前後には長年忠勤を尽くした旗本に対する名誉職と化した。
    なお、似たような名前の職に留守居番(るすいばん)がある。
    これは留守居と同様老中に属し、宿直により大奥の警備、奥向きの用務を取り扱った。
    概ね1000石の旗本が任じられた。
    留守居とは同僚ではあるが、直接上下関係はなかった。

    セフレ
    大番
    大番(おおばん、大御番)は、江戸幕府の組織の一つで、常備兵力として旗本を編制した部隊である。
    常備兵力としての大番は、同様の組織である五番方(小姓組、書院番、新番、大番、小十人組)の中で最も古く、石川数正が出奔した翌年の天正14年(1586年)に徳川家康が徳川家の軍制を武田流に変更した際に編制され、内藤紀伊守信政ら6名が最初の大番頭に就任した。
    文禄元年(1592年)には江戸城改築にともない、当時あった6組の屋敷地を江戸城北西側に設けている(千代田区には一番町から六番町までの地名が現在も残る)。
    開幕前の大番は松平一族や家康の縁類が番頭に就く事が多く、この当時は後の両番のような親衛隊的側面も有していた。
    大番は当初は6組、その後の増強と幕府制度の整備にともない、本丸老中支配として12組となる。
    徳川秀忠が将軍に就任し、書院番・小姓組(創設当初は花畑番)が新たに創設されると親衛隊側面はそちらに移行し、大番は幕府の直轄軍事力となってゆく。
    そのため、将軍・大御所・世子の親衛隊ではない大番が西の丸に置かれる事はない。
    1つの組は番頭1名、組頭4名、番士50名、与力10名、同心20名で構成される。
    番頭は役高5000石の菊間席で、しばしば大名が就任した(開幕初期はその傾向が特に強い)。
    組頭は役高300石、役料100俵の躑躅間席、番士は持ち高勤め(足高制による補填がない)であるがだいたい200石高の旗本が就任した。
    役高に規定される番士の軍役から計算した総兵力は400人強となり、2万石程度の大名の軍役に匹敵した(『岩淵夜話』によると5万石に比例するとしている)。
    職務は、戦時においては旗本部隊の一番先手として各種足軽組等を付属した上で備の騎馬隊として働き、平時には江戸城下および要地の警護を担当する。
    大番の警護する要地には二条城および大坂城があり、それぞれに2組が1年交代で在番する。
    江戸時代初期にはこのほかに伏見城と駿府城の警護に当たっっていたが、伏見在番は伏見廃城により、駿府在番は書院番が勤めることになり、それぞれ廃止された。
    大番は歴史が古いものの、「両番」と称せられる小姓組、書院番に比べ家格は一段低いとされ、番士たちの出世の途は限られていた。
    なお、薩摩藩では家格が整備されるまで、後年に御小姓与と新番の身分に分別された武士を大番と呼んでいた。
    セフレはこの時代から存在しておりました。


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